2015/09/21

安保法制の小川さんの提言が今のところバランスがいい気がする


2015/05/24

三菱東京UFJ銀行の海外ショッピング利用での注意点

最近、マレーシアに頻繁に出向く際に現地でクレジットカードで支払うようにしていましたが、KLは両替所も多く、両替手数料も安いので、これからは現金にしようかなと。。



また、マレーシアではVISAかMASTERカードならいいですが、一般的なお店は、その他カードは使えない場合が多いですので要注意です。



私の場合は、愛用のカードがJCBでVISAが手持ちになかったので、ちょっと気になっていた三菱東京UFJのVISAのデビットカードを新しく作って主に、海外での緊急用の現金引き落とし用に使ってます。



で、最近、その三菱東京UFJのVISAのデビットカードをショッピングにも使うようになって気がついたんですが、これ、海外事務手数料として3%と、後から為替の差額計算をして、差額を後日引き落としや入金があるらしいです。。



詳しくは、こちら、、

国内・海外・ネットでショッピング | 三菱東京UFJ銀行:



皆さん、海外は割りとクレジットカードを使っている方多いですが、

旅行者の方も、現在ではなるべく、現金での買い物をおすすめします。



日本だとカード手数料をお店側が負担している場合が多いですが、こちらは、割りと手数料は買い手が負担の場合も多いですし。。



円安ということもあって、なるべく余分な手数料も痛いですしね。。



参考までに。。



'via Blog this'

2015/04/07

想像力の危機

人間の未知に対する想像力の危機。新しいものを手繰り寄せるメカニズムを失いつつある。

いま、限界が来ているのは今世紀の産業主義

経済活動は文化という土壌と不可分。今世紀の産業主義は、それを技術の次元に還元し、文化から切りはなそうとした。

その限界地点で、ようやく、欲望を産業技術のフロンティアの奴隷にすることから解放されようとしている。

欲望を文化的イマジネーションの世界へ取り戻せる。

資本主義と市場経済は違う

経済学者は市場経済の合理的メカニズムを見出だした。しかし、これは資本主義には当てはまらない。資本主義と市場経済は違う。

盲目的拡張、おわりなき発展は合理的には分析出来ない。

よく、経済学者が市場経済の分析から資本主義を語ることは多いが、議論は分けて考える必要はある。

2015/04/04

古賀さん、ニュースステーション降板?






忙しくて気づきませんでしたが、面白いこと起きてたんだぁ。それにしても古賀さん面白いなぁ。

まず、古賀さんの議論の中身については共感することを前提として、、。
番組降板は古賀さんの勘違いな気がする。一応、作り物でもある番組だから作り手である放送局側の意図は(意図の良い悪いや古賀さんの理屈とは別に)あるだろうし、生放送ということもあり、電波の公共性を考えた場合、個人的な事や、言論の自由を盾に勝手に発言しそうな人は責任者にとっては、危なっかしくて使えないというのは当然あると思う。


ただ、古賀さんの主張は、それこそが言論の自由を主張すべきメディアが政府と結託して行う言論弾圧の裏ロジックだと。


でも、電波の公共性とか言論の自由の前に、放送局も古賀さんも番組作りしている以上ビジネスだしね。政府からの圧力があったとしても、究極的には、電波利権を維持するための放送局側視点のビジネスでしょ。テレビということで降ろされることを、いちいち言論の自由を盾に取り止めてくれるならそんな有り難い話はないよね。(なんかそういう感じになってきているのは気になるが)

だから、古賀さんは、ビジネス的には儲からない、面白くない、もしくは、仕事を一緒にしにくいから降板ということでしょ。古賀さんが出なくなったことで番組の視聴率が下がるなら、プロデューサー失脚というだけの話。放送局の方向性が良いかどうかは別問題として。

気になるのは、古賀さんは番組中に降板理由として、無視できない弾圧であったかのような言い方と、その証拠があるようなことを言っていたこと。その中身によっては話は変わってくることもあるけども。。。

この手の話を聞く度に思うのは、ブラック企業批判でも思うけど、なんで文句言いながらやってるの?ということ。

古賀さんの場合なら、番組に出なきゃいいと思っちゃう。自分の主張があれば、自分自身で発言すればいいし、ネットもあるし発言の場はたくさんある。せっかく良いこと言ってるのに、どうしても子供っぽく見えちゃうのが残念。

古賀さんのコメントの最後に、ガンジーの言葉を引用していた。
「あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。
そうしたことをするのは、世界を変えるためではなく、
世界によって自分が変えられないようにするためである」

古賀さんも座右の銘にしていると語っていたけど、古賀さんの主張はそうであっても、今回のやり方はガンジーの意図とは違うかもしれない。
要はやり方の問題。頭のいい人なんだからもう少し上手くやって欲しい。

2015/03/21

サリン事件から20年。未だ増え続ける信者がいるのはなぜか?

http://sp.mainichi.jp/select/news/20150321k0000m040128000c.html

オウムの地下鉄サリン事件から今年で20年経つらしい。

個人的には、この事件当事、日本におらず、海外の滞在先でニュースを見聞きしたので事件への体感的なインパクトが根本的に弱い。

そんな自分と同じか、はたまた、事件をしらないのか? それとも20年経つと、あの悲惨な事件も風化してしまうのか? 理由は分からないが、未だオウムから分派したアレフと光の和に入会、出家する人が多くいるということらしい。

入会や出家する人を批判するつもりは無いけれど、事件のことをもし知った上で入会しているなら、その人たちの感覚をやっぱり疑ってしまう。

結局、この事件は長い年月は経っているけど、事件に対しての捉え方や見方、また事件の意味について、自分を含めて多くの人は正しく理解できていないと思う。

理解出来ていないので、潜在的信者の心の隙間をどんどん狙われてしまうんだろうか?

20年を機会にオウム関連の書籍を改めて読んでみようかな。




2015/02/18

格差問題についての考察「ホリエモン的、格差論と格差と言われる価値基準」

2年ほど前に大竹まことさんのラジオ「ゴールデンラジオ」にホリエモンが出演していた。ホリエモンは一般的に誤解されている部分が多いと思うが、このラジオでは本来の彼の基本的な考え方を見ることができると思った。


で、その中でも個人的には彼の言葉で気になることが以下の二つ。
  1. 「この先の日本は格差が広がり、世界の格差はなくなっていく」
  2. 「格差をお金で計る方が拝金主義的じゃないか?」 
ひとつ目の「この先の日本は格差が広がり、世界の格差はなくなっていく」という下りがあるが、番組内でも大竹まことさんが、決まり文句のように、格差について語り始めたときに、ホリエモンが誤解を解くように付け加えた。

大竹さんもそうだし、最近のピケティさんブームで格差問題について改めて話題になっている中での議論もそうだけれども、皆、日本の格差の話とごっちゃにして話すので分かりにくいが、日本のような先進国の国内問題としての格差問題なのか、先進国と後進国との格差問題なのか、はたまた、国は関係ない相対的な格差なのか? そこを定義しないとイマイチ分かりにくい。ホリエモンも、その辺を言い直したんだと思う。

もちろんピケティさんは先進国も後進国も関係なく、各国を相対的にデーターを絡ませて結論づけているんだろうけど、明らかに、日本のマスコミやネット上の大部分は、日本の格差だけの話をしていると感じる。。ピケティさんが言うんだから日本は格差があるのだと。。
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東京財団というサイトでこの辺の考察してます。
ピケティ「21世紀の資本論」に対する疑問-資本の定義に矛盾あり
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そもそも格差是正をしなければいけないことは、日本人同士の国内格差問題以上に、発展途上国のとてつもなく貧困な層の人たちと、先進国で普通に生きられる人たちとの格差じゃないのかなぁと僕なんかは単純に思ってしまう。そうしたとき、資本家たちの投資による企業活動以外に誰がサスティナブルにその格差を是正していけるんだろうか? 政府に税金を払って正しく格差是正のために再分配されるんだろうか? 

僕は、まったくその考えには否定的。そもそも、政府から出てくる税金を肥やしにしている志のない資本家ばかりなのが問題で、本来の資本主義という考えが問題なのではないと思う。また、税金で再分配するより、資本主義のルールの中で、お金を回した方がよりクリーンだと思う。また、彼ら真の資本家が、資本主義のルールの中で、民主主義的な視点で、その格差是正のための活動を進めていく。いままでやってきたし、そうやって日本も、東南アジアの国々も発展してきて経済的にも豊になり、格差是正につながってきたと思う。この流れを加速させるのが今だと思う。

ふたつ目の「格差をお金で計る方が拝金主義的じゃないか?」 という話は、その格差問題につなげる形で、ホリエモンが話を広げていった。彼は、いま語られている格差の価値基準はお金なんだけど、そもそも、価値基準はお金だけじゃない。最低限生きられないほど格差があるのは良くないが、日本はそうでもない。もっと、価値基準をお金じゃない部分にも振り分けられてもいいのでは?というのが彼の主張。

僕はそれに付け加えて、日本の格差の問題の捉え方として、格差を感じている人と、格差をつけている富裕層の気持ちのギャップが広がっているのが一番の格差の広がる要因だと思ったりする。 というよりも、格差を感じている人たちの諦めのようなものかもしれない。僕はその諦めは否定はしないけれども、現状の資本主義のルールの中でやっていくのであれば、そういう諦めを持った人は、甘んじて、格差を受け入れるべきだと思っている。

ただ、それは、格差格差とがんばりもせずに文句を言う人たちに向けた話であって、さっきホリエモンの価値基準の多様性を踏まえて考えれば、文句を言わずに、格差はあっても、お金は少なくても、身の丈にあった生活や、家族や友達との生活を大切に生きていくことは、諦めでもなんでもなくて、それは、彼らの価値感であって、それがみんなの価値感となれば、そこにまた市場が生まれ、既存の資本の入れ替えが自然と起こってくるんじゃないかと。彼らにとっては、お金はそれほど必要じゃなくなるので、お金の価値が異常に下がる。そうなった時は、なにもお金としての資本を持っていることが重要ではないのかもしれない。。彼らの新たな価値観が市場の資本となる。。

グローバル化や、資本家に文句を言う前に、僕ら新しい世代は、新たな価値を生み出すことで、資本構造を変えて行くくらいの意気込みで、とにかく新しいことを進めていけば、日本においてはそれほど問題ないと僕は思う。










2014/08/11

佐世保女子高生殺害事件での「親の責任論」に対して思うこと。。

 先月起きた、佐世保の女子高生殺人事件で、同じ年の子を持つ親としてちょっと思ったことを書きたい。

まず、被害者の女子高生のご冥福を祈りたい。同時に、被害者のご両親に対しては、同じ年の子を持つ親として、現在の心境を思うと、非常に辛い。。

で、辛いと同時に、今回の事件は、同じ年の子が居る親としも非常に気になることが多いんだけど、何が気になったのかというと「親の責任論」について。

報道内容については、様々でており、加害者の情報や、親の情報も少しずつ表に出てくると思うけど、現時点で犯人とされる少女が猟奇的殺人事件を起こし、その責任は誰にあるのか?という部分で「親の責任だろう」という議論が多かったので、少し考えさせられた。

最初に個人的な立場としては、未成年の犯罪の責任は、どこまでいっても親が負う責任だと自分自身は思っているし、親の教育は大切だと思っている。ただ、本質的な問題として、親や、子が受けた教育が正しければ、こういう事件が起きないかと言えば、それは全く別問題だと思う。

結局、こういった未成年の猟奇的殺人事件に対しての、一般的な一定の結論というか、腑に落ちた見解はなく、自身もモヤモヤした感じで、現在、親になり、事件を起こした子と同じ年の子を育て、ちょっと他人ごとではない感じでいる。。

で、それを踏まえて色々見聞きすると、
親の責任論者の方にも、ツッコむ論点が色々あって、
・親の教育の問題
・育った環境の問題
・学校や教育関係者など間接的な関係者の問題
と、この辺が多い。

親の教育問題については、多くは報道されてないので、まったくの憶測でしか語ってはいないだろうけど、まぁ、普通に考えると、それがあるかもしれないレベルが今の議論の状況。

育った環境の問題も、親の教育の問題と同様に、親に離婚歴があるとか、父が弁護士で、母が教育委員で、加害者の子も事件は数々起こしているが、勉強や運動的には優秀で云々。。

学校や教育関係者などの間接的な関係者問題も、教育委員会の隠蔽問題や、親が元教育委員会だったとか、、相談所や病院の対応云々。。

まぁ、どれも、いつもの議論なので、タイトルの親の責任論に絞って話をしたいんだけど、

まず、仮に親の教育に問題があり、劣悪な生活環境で育った場合でも、そういう事件にならないケースは沢山ある。それは皆が理解している。今回の少女の例でも、現時点での報道を見る限り、多少は家庭に問題はあったかもしれないけれど、劣悪な環境かと言えばそうじゃないとも見える。そもそも酷い環境かどうかは当人の主観的な部分も影響するので、はた目に、劣悪だと思っても人間的に生きる人は居るし、そこまで劣悪じゃなくても、精神的疾患をきたしたり、それが影響して事件を起こす場合もある。だから、この議論も最終的には全く不毛だと思う。ヤンキーを更生させるのとはワケが違うでしょう。。

もっと言うと、仮に映画「ニキータ」じゃないけど、幼少から親がなく、殺人請負人に人殺しの手ほどきを受けるような、ものすごい猟奇的な教育を受けたとしても、多分、猟奇的殺人者になるかどうかは全くわからない。。(ニキータはもっと人情的な話ではあるので例として悪いか。。)

こうやって考えていくと、僕は、親が子に教育するのは当然ではあるけれども、自分がもし、今回の事件の加害者の親だとしたら、被害者には当然、親として一緒に償っていき、自身であって自身でない子供と運命を共にするしか受け止めようがなく、自身の教育の問題を振り返るかと言えば、そういう心境では到底ないだろうし、そういう問題ではないと思えてしょうがない。。

さらに、教育云々の問題が影響しない場合もあると自身で認識しいる親として、どう子供と接して、どう子供を見つめていくのか? そう考えると、物凄く難しく、できる教育は全て行った上で、最終的には信じる以外には僕自身としては何もできないと思った。。

今回の加害者の親は、子供を精神病院に連れて行き即日入院を要請したらしい。教育問題や諸所の問題はさておき、これはある意味冷静に判断して、親としての責任を果たそうとする意思はあったんだと感じたりもしたが、(もちろん、結果として殺人を犯してしまったことの言い分にはならないが)今回は、それなりの少女の特異性を実感できる事件が前にあったので、そういう行動に出れた。では、自分の場合、そういう兆候があればどうか?また、なかったらどうか? 子供の心の動きを敏感に感じ、そういう処置を考えただろうか? また、その兆候が小さかったらどうか?

以前、同性愛者についての議論の際に、インド人の人が、「自分の子が同性愛者だったら子供を自ら殺す」と発言していたのを見た。インドやイスラムでは、宗教上、人殺しと同じくらい同性愛に対しては罪深いことと認識されていることを知り、違う宗教感では意味不明だけれども、宗教上のこととは言え、親の心理としては、人として逸脱してしまった子供(繰り返すが僕は同性愛者が人として逸脱しているとも思わないし、逸脱していると見るイスラムやインドの宗教観も否定はしない。ただ、そういう宗教観の宗教には入らない)を持ったら、分からないでもないと、今では附に落ちる自分が居たりする。。

じゃ、猟奇的な兆候を自分の子供に感じたら、親として子供を殺してしまうのか? または、親として精神病院に強制的にぶち込めるのか? これまた、自身に置き換えると非常に難しい。。というより分からない。。

こうやって、どんどん考えていくと、、。
加害者やその親を養護する意味ではなく、
今回の事件は当事者でどこまで、どう対処できた問題なんだろうか?
自分の子に置き換えた場合はどうだろうか?
また、その加害者の親と友達だった場合は、どう対処するべきなのか?
子供の友達にそういう子がいたらどう対処できるのか?
それは、自分には関係ないことなのか?
しょうがないことなのか?

とにかく、やっぱり、今回の事件のような、現代の概念では想像できない問題に対しては、分からないなりに、現時点での見解を自分自身、認識しておくべきだと、今回は改めて思った。。

2014/04/12